ステンドグラスの歴史研究家 田辺千代 Study  [研究レポート]  

ステンドグラスの歴史研究家 田辺千代

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郷土神奈川第42号論文
日本のステンドグラス史
神奈川のステンドグラス

小田原史談  第193号   2003年(平成15年)3月
小田原駅のステンドグラスなど

神奈川新聞 ぽぷり欄
ステンドグラス記事抜粋
 
<論文>

「日本のステンドグラス史
 神奈川のステンドグラス」

田辺千代

「郷土神奈川 第42号」 22〜41ページ
 神奈川県立図書館 平成16年3月発行 

 
 
第一章 草創期のステンドグラス (1894〜1910)
◎岩城瀧次郎と宇野澤辰雄が残したもの
国産板硝子製造に生涯を懸けた岩城瀧次郎

岩城瀧次郎は安政4年(1857)千葉県に生まれた。生家は江戸時代大名の宿舎となった陣屋で、屋号を飴屋と言った。早くから文明開化に胸躍らせ、明治8年(1875)伝をたよって、東京市本所区松井町の加賀屋久兵衛の弟子であった沢定次郎(加賀定)のもとに弟子入りする。瀧次郎18歳の時であった。

同9年(1876)官営の品川硝子製作所が工員を募ることを知りいち早く応募、採用された瀧次郎はここで、英国人硝子技師トーマス・ウォルトンとジェームズ・スピートに会い、近代西洋流の硝子製作技術の指導を受けた。身長五尺八寸(180cm)体重二十貫(75kg)の堂々たる風貌の快男子だった瀧次郎は、その器量と情熱が認められ、工作分局の職工長に任命されるまでになった。

同14年(1881)独立。同16年(1883)私設工場の許可が下り、京橋区新栄町に工場を開設した。洋式製法の外に和式の共竿と称した硝子管の方法で、和洋折衷の新しい技法を生み出し、洋燈瓦礫火舎、水呑その他食器類の製作も始める。同17年(1884)には弗化水素による腐食硝子を完成させた。同18年(1885)の紅色硝子、緑色硝子のマスト及び舷灯の開発は、航海業者の賞賛を博した(夜間船の左舷に緑色の舷灯を付けて航海する決まりがあった)。他にも、深海電燈用反射鏡、理化学用品、医薬品硝子等、次々に新しい製品を世に送り出した。

しかし、国産板硝子製造への夢は消えることなく同32年(1899)、浅野総一郎、S熊三郎等の助力を得て渡米を決意する。4ヶ月間の視察旅行から帰国した瀧次郎は輸入硝子の量に驚き、なんとしてでも国産の板硝子を製造しようと賛同者を募り、資本金30万円を以って会社を興した。発起人に名を連ねたのは、浅野総一郎、外出義達、河野松五郎、森川惣助、長富直三、糸永新太郎、平野与市、岡崎久次、S熊三郎等である。

同33年(1900)品川硝子製作所の旧工場を譲り受け試作をこころみる日々を送るが、努力は実らず同34年(1901)、数万円の負債を負って閉鎖のやむなきに至った。しかし瀧次郎はめげなかった。硝子に対する思いは褪せることなく同36年、第五回大阪勧業博覧会に、米国視察時に習得したステンドグラスを出品する。同年再度窓硝子用板硝子の製造を企てたが、需要が少なく技術的困難や資金面でのあれこれが加わり、まもなく中止した。

岩城瀧次郎はその生涯を硝子製造の為に捧げ大正4年(1915)57歳で亡る。突然の病であった。瀧次郎の残した工業用硝子の功績は、岩城瀧次郎、岩城岩太郎、岩城英達、岩城達之助と4代に渡って引き継がれ、現在も横浜硝子株式会社として横浜市神奈川区入江町で事業を展開している。

 
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郷土神奈川第42号論文
日本のステンドグラス史
神奈川のステンドグラス

序にかえて

第一章
草創期のステンドグラス
岩城瀧次郎
宇野澤辰雄
ベックマン貸費生
宇野澤辰雄の帰国
渡辺千秋邸のステンドグラス
我国初のステンドグラス工場

第二章
成熟期のステンドグラス
小川三知
小川三知のアメリカ留学
セントルイス大博覧会
帰国後の小川三知とその終焉

第三章
終息期のステンドグラス

あとがき

神奈川県のステンドグラス

 

 

 

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